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浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のような感じの共同湯であった。その巌丈がんじょうな石の壁は豪雨のたびごとに汎濫する溪の水を支えとめるためで、その壁に刳くり抜かれた溪ぎわへの一つの出口がまた牢門そっくりなのであった。昼間その温泉に涵ひたりながら「牢門」のそとを眺めていると、明るい日光の下で白く白く高まっている瀬のたぎりが眼の高さに見えた。差し出ている楓かえでの枝が見えた。そのアーチ形の風景のなかを弾丸のように川烏かわうが飛び抜けた。
が、材木置場の混乱にもかゝはらず、そこから一段と小高くなつている出張所の構内では、やはり高張提灯がかゝげられ、焚火が燃え、人が立つて歩いていたが、をかしい位にひつそりし、柵のところにかたまつた人影は下方の混乱を黙つて見物しているとしか見えなかつた。
恐しく暗い。目の前に小河の水面がぼんやり光つて流れていた。橋を渡ると、そこは営林区署出張所の材木置場で、その向ふに稍小高い山を背負つて出張所の建物が立つていた。そこだけに、高張提灯がいくつか並び、傍で小さい焚火が燃え、疎まばらな人影が立つて照し出されていた。他には火らしいものはどこにも見えない。鐘はいつのまにか止んでいた。どつちを向いてもたゞ大きな暗さが黙り返つて立つているだけだつた。しかるに、房一の入りこんだ材木置場から橋にかけたあたりにはとまどひした無数の人が誰とも判らないまゝにつめかけ、空を見上げ、がやがや云ひ、押し合ひ、駆けまはりしていた。彼等は夢中になつて走つて来たのと、暗らがりとどこに火事があるのだか判らないためとで一様にあてどのない興奮にまきこまれ、どうしていゝかもわからず、たゞ無暗とつめかけ、そこらぢうでバケツの音がし、躓つまづいたり転んだりしていた。製材された板片の井桁いげたに積み上げられたものが、人に押されてばりばりとくづれ落ちる音がした。
それから一二時間たつた頃には、上の町の予定した家をあらかた廻つて、房一はそれが今日の挨拶まはりの一番の目的だつた大石医院の手前にさしかゝつていた。家を出た最初から、路々彼はそのことばかり考へていた。老医師の正文の方は、四五年かあるひはもつと前に、自転車に乗つて往診に出かける姿を見かけたことがある。息子の練吉には、彼が夏休みか何かに医専の学生服を着ているのに路上で会つたことがあるから、多分それはずつと前だつたにちがひない、それも擦れちがつただけで、練吉の方では房一を気にとめもしなかつた。房一には老医師の方は今もこの前と変りのない姿を想像することができたが、練吉の方はどんな風になつているか見当がつかなかつた。彼等はどんな様子でこの自分を迎へるだらう、それから自分はどんな風に話を切り出したものだらう。「はじめまして」もをかしい、二人とも全然知らぬ間ではないのだからな、「しばらくで御座いました」と云ふかな、これもどうも変だな、――それからまだ言葉にはならない、いろんな言葉を頭の中で云つてみた。相手が頭を下げる、こつちもお辞儀をする、そんな恰好がひとりでに頭の中を横切つたり、消えたりした。房一は漠然と興奮していた。
近づきながら、何となくほの紅くなつて、中声で叫んだ。そして、房一の傍にいる小谷と徳次を認め、小腰をかゞめた。括くゝられてふくらんだ袖口からは気持のいゝ白い腕が露はれていた。
練吉はさういふ今泉の足もとを見、更にじろりと皺一つよらない衣裳を見上げた。何か疳にさはつたやうな色が動いた。そして、一言できゆつと相手をへこまさうとする時のやうに、神経的に口を曲げ、今にも云ひ出さうとした時、少し離れたところから手招きしている房一と小谷とに気づいて、そのままそつちへ行つてしまつた。
「や、それでは――」
と、案外冷静に云つた。
盛子は笑ふまいとしながら、こらへかねて真紅になり、そこにうつ伏しになつてしまつた。道平も釣りこまれて笑つた。だが、それは心持ひきつゝた痕跡の中に押しこまれたみたいになつた。彼が髯を落したのはそんなに悪戯気でやつたのではなかつたので、盛子の大げさな可笑しがりやうがいくらか気にさはつたのだ。で、彼の顔はすぐに老人らしい克明な生真面目さをとりもどし、房一の方を向いて、ゆつくり切り出した。
富田は房一に声をかけて彼のために席を明けながら、つづけて
房一はどこか鹿爪らしい恭順な面持で、控目にじつくり身体を押へるやうにして上るとうしろ向きになつた猫背の老医師の肩がひよいひよいとまるで爪さきで歩いているやうに彼を奥の方へ導いて行つた。
半之丞は誰に聞いて見ても、極ごく人の好いい男だった上に腕も相当にあったと言うことです。けれども半之丞に関する話はどれも多少可笑おかしいところを見ると、あるいはあらゆる大男並なみに総身そうみに智慧ちえが廻り兼ねと言う趣おもむきがあったのかも知れません。ちょっと本筋へはいる前にその一例を挙げておきましょう。わたしの宿の主人の話によれば、いつか凩こがらしの烈はげしい午後にこの温泉町を五十戸こばかり焼いた地方的大火のあった時のことです。半之丞はちょうど一里ばかり離れた「か」の字村のある家へ建前たてまえか何かに行っていました。が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折はしょる間まも惜しいように「お」の字街道かいどうへ飛び出したそうです。するとある農家の前に栗毛くりげの馬が一匹繋つないである。それを見た半之丞は後あとで断ことわれば好いいとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨またがって遮二無二しゃにむに街道を走り出しました。そこまでは勇ましかったのに違いありません。しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ飛びこみました。それから麦畑をぐるぐる廻る、鍵かぎの手に大根畑だいこんばたけを走り抜ける、蜜柑山みかんやまをまっ直すぐに駈かけ下おりる、――とうとうしまいには芋いもの穴の中へ大男の半之丞を振り落したまま、どこかへ行ってしまいました。こう言う災難に遇あったのですから、勿論火事などには間まに合いません。のみならず半之丞は傷だらけになり、這はうようにこの町へ帰って来ました。何なんでも後あとで聞いて見れば、それは誰も手のつけられぬ盲馬めくらうまだったと言うことです。
と、練吉は急いで云つた。